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東京慈恵医科大学同窓会

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2016年03月25日 第1261回成医会例会開催
―倉迫一朝九州民放クラブ/宮崎・会長による講演―


 平成28年2月16日(火)、第1261回成医会例会が大学1号館講堂(三階)で開催された。今回は倉迫一朝(くらさこ・かずとも)九州民放クラブ/宮崎・会長による「『病気を診ずして病人を診よ』と『地霊人傑』、高木兼寛先生に学ぶ日本近代」と題してご講演を頂いた。『地霊人傑』は辞書によると「土地柄が優れ、そこに住む人物も一際優れている」「風土、人物ともにずば抜けて立派」とあるが、倉迫講師は吉田松陰の「地離れて人なく、人を離れて学問無し」という言葉を思い起こされてとのことである。また、『地霊人傑』とは穆園こと高木兼寛先生が掛け軸に書かれた言葉であり、『病気を診ずして病人を診よ』に次ぐ、座右の銘であると言える。
 講師の倉迫一朝氏は昭和11年旧満州国のお生まれで、戦後、日本に戻られ、熊本大学法文学部に入学され、昭和35年に宮崎放送に入社され、歴史ドキュメントなどのテレビ番組制作・編集にご活躍され、平成8年に退職された。現在、九州民放クラブ/宮崎・会長に就かれている。倉迫講師は歴史、人物に関してのご造詣が深く、宮崎放送時代には高木兼寛先生に関するテレビ番組を制作され、それに関する著書も出版されている。
 倉迫講師は宮崎放送に入社後、高木兼寛先生という日本近代医学の発展に尽くされた宮崎出身の偉大な医師がいたことを知り、その足跡をたどるとともに、一週間セント・トーマス病院・医学校を訪問され、高木兼寛先生の御業績を詳しく調査された。それを基にして講演を行った。
 高木兼寛先生は嘉永2年に現在の宮崎県高岡町で生まれ、鹿児島で醫學を学び、戊辰戦争に従軍後、24歳で上京して海軍軍医になり、27歳でセント・トーマス病院・医学校に留学、34歳で帰国後、翌年、成医会講習所を設立された。大正9年に72歳(数え年)で逝去されている。この間、脚気の予防法を発見し、ビタミン発見の先駆者として世界的な評価を受けたことは既存の事実であるが、その間の足跡を詳細にわかりやすくお話しされた。その中で、攘夷と開国、明治に入り、欧米列強と肩を並べるための急速な近代化とともに、医療、医学、看護、病院の近代化そして海軍の成り立ち、当時の日本人の生活スタイルについて触れられた。更に当時の日本とイギリスの社会の仕組み、文化、教育、宗教などの相違を基に高木兼寛先生がイギリスの医療を導入する経緯を示された。
 倉迫講師はまた『病気を診ずして病人を診よ』の診るという字は「深く見て申す」という意味であり、自分自身の目、頭脳そして体全体で物事を見て行くことが、現代の世界ではかけて来ているのではないかと指摘された。今回の講演で高木兼寛先生の足跡とその時代背景、歴史を振り返ることにより、足元を固めてしっかりものを見て行くことが我々に求められることであることが実感できた素晴らしいご講演であった。
(成医会運営委員長 中川秀己)

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